「國史に返れ。」
日本國の歴史は大和民族の系図である。吾人祖先の功科表である、日本國の寳庫である、日本國民の経典である。
日本國を知るには、國史を透して知るより他に方便がない。國史は実に忠実な案内者である、信頼すべき指導者である。吾人は歴史的に考りょうせねばならぬ。
すべての人類は平等観よりすれば皆同胞である。しかし、歴史観よりすれば、すべての国は皆特殊の性格を具へている。甲国と乙國とは同じでなく、乙國と丙國とは違い、而して丙國と甲國ともまた同じでない。十箇國あれば十箇國の相違があり、百箇國あれば百箇の差異がある。この特殊の國性を維持する上に於いて、始めて独立國の意義が完うされる。独立國の本義は形式的に他の干渉を絶ち、我が自主の面目を保つのみではない。精神的に自主であらねばならぬ。詳かにいえば、精神的に自國の個性を把侍し保存し、開展し、発達させねばならぬ。我が大和民族の誇りは日本の歴史である。この歴史の中には、必ずしも悉く皆正しいこと善いことのみが満ちてはいない。必ずしも悉く敬ふべく仰ぐべきことのみが溢れてはいない。
人間は決して神様ではない。人間所作には、さまざまな過失もあれば罪悪もある。しかし、総括していえば、日本の歴史は決して大和民族の恥辱史ではなく、光栄史である。いかに日本の皇室が世界に比類のない有難い皇室であるかは、國史が最も雄弁にこれを語っている。いかに日本の國民がその一旦緩急の際に處して、護國の精神に猛烈に且勇敢であったかは、國史がその証人である。いかに大和民族のうちに世界的偉人と比較して一歩も劣らぬもの、即ち彼自身また世界的偉人に稱するに足るものを生じたかは、長い年代のうちに屡、接觸したところである。
即ち我が明治天皇の盛徳大業も、國史の背景によって始めて明白に精詳に剴切にこれを会得することができる。國史の背景がなかったならば、五箇條の御誓文の如きも、一種の雄快な文書たるに止まるだろうし、帝國憲法の如きも、単に乾燥無味な一部の法文に止まるであろう。(中略)
「國史に返れ。」とは、すべての國民が歴史家となれといふのではない。それには専門の學者がある。ただ日本國民として日本の歴史のその大いなる道筋を諒解せよといふのである。この歴史は精神的に於ける日本の潜在して居る寳藏である。いやしくも國民的に生活し且活動しようとするならば、まずこの寳藏に向かってすべてのものを求めるがよい。
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